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保険 見直しの簡単な説明

不動産投資では、拷定地域への集中が顕著で、具体的にはハワイのホテルとニューヨークやロサンゼルスのオフィスビルが投資対象として選択された。
いずれも日本になじみがあり、確実な投資対象のように見えたのであろう。
「アメリカ人の魂を買った」と非難されたニューヨークのロックフェラー・センターを含め、こうした実物投資が産み落とした政治的風圧は、その後のアメリカの対日経済政策に微妙な影を落とす。
米国内には、ジャパン・マネーが財政・経常赤字を支えてきたことにさえ、好悪相反するアンビバレントな感情があり、これが実物投資となると、目につきやすいものだけに、反応はより直哉になる。
日本の直接投資の立地傾向が偏るなかで、置き去りにされた形の既存工業地域に依存している労働組合、少数民族を中心に、日本の投資を非難する世論が形成されやすかった。
日本は、経済の論理では可能な、唯一残された為替変動の果実の享受を政治的に阻まれてしまったのである。
BIS規制の舞台裏さて、こうした世論の風圧が強まるなかで、アメリカの政策決定中枢のなかにも、日本からの資金流入に頼りつつ、同時に日本のマネー・パワーを抑え込もうという、相矛盾する動きが芽生えていた。
そのために考案された装置の一つが、銀行を対象にしたBIS規制である。
国際決済銀行は、先進国中央銀行の出資による、加盟国間の協力、調整のための銀行である。
八〇年代に入って、BIS傘下の「銀行監督委員会」では、リスク防止を理由として先進国の銀行に自己資本の基準を設けようという動きが本格化した。
その結果、八八年七月の先進十カ国蔵相中央銀行総裁会議では、国際業務を行う銀行は、総資産に対して八%の自己資本を要することが合意された。
このいわゆるBIS規制は、作成過程を分析してエサン・カブスタイン(米外交評議会研究主任)が実証したように、日本の銀行の伸長を抑えようというアメリカの意図によるものである。
主要先進二十五カ国の銀行の海外融資残高は、八三年時点では、米銀がトップで六〇六〇億ドル、二八%のシェアを占めていた。
邦銀は二位で四五七〇億ドル。
ところが九〇年には、邦銀が、二兆七二〇億ドルと融資残高を四倍半に伸ばし首位に躍り出る。
このような邦銀の国際業務を抑制すべく定められたのがBIS規制である以上、九三年を目標年次としても日本の銀行にとって達成が厳しいように設定されていることは、むしろ当然であった。
そもそも、リスク防止のためと称してもうけられた「自己資本八%」という基準には、何の根拠もなかった。
なぜ六%や一0%であってはならないのか。
海外業務を推進する上でのリスクを計算して出てきた数字ではなく、アメリカの銀行にクリアし易く、邦銀に難しい数字が八%であったにすぎなかった。
カブスタインによれば、BIS規制の制定過程は次のようなものであった。
アメリカは自国の金融危機にかんがみ、自己資本比率の規制を検討したが、自国の銀行にのみそれを求めたのでは国際競争力を弱めかねない。
そこでポルカIFRB議長は、BISにおいて国際合意を求めた。
が、これは独、仏、目の強硬な反対で頓挫する。
そこで戦略を変更し、イギリスとの二国間の合意とした上で、両国の銀行が国際業務にこれを適用することとした。
これは他国の銀行にとって脅し以外の何ものでもなかった。
同じ基準をクリアしないと、米英両国の銀行と取引できない、ということは、事実上、合意へのサインを強制されたに等しい。
そこで大蔵省は基準設定の交渉で、株高で日本の銀行の含み益が大きいことに注目し、その四五%に限って自己資本として算入できるよう認めさせることで、合意をした。
当時、ドイツの銀行も、払い込み自己資本の他に大きな「含み」資産を持っていたが、ドイツの主要銀行は、含みは「隠された資産」であり、公表するつもりはなく、自己資本に算入されずともよい、という姿勢を崩さなかった。
その意味で日本の金融界と大蔵省は、まことに運命的ともいえる選択をしたことになる。
株高の維持こそが、邦銀にとっての生命線となり、バブル崩壊後の邦銀に苦難の道を準備することになったのである。
ともあれ、BIS規制の効果は、合意後ただちに現れた。
自己資本比率八%を達成するため、邦銀が国際融資に慎重になった結果、世界の国際シンジケート・ローンの組成規模が縮小していった。
八八年に一二六〇億ドルだった組成額は、八九年には一二一〇億ドル、九〇年には一〇八〇億ドルと漸減する。
世界の円建て融資の比率も、八七年の一〇・八%が、八八年に五・六%、九〇年に一・八%と、ゼロに近い水準にまで落ち込んでしまう。
何をなすべきだったかこれまでの経緯を整理してみよう。
日本の機関投資家は、八〇年代に入って対米投資を本格化させたが、それは主として金利の高いドル建てのアメリカ国債を競って買いまくるという形で行われた。
日本から流入した資金は、アメリカの財政・貿易両面の赤字をまかない、継続的な需要、とくに輸入品に対する需要を生みつつ好況を維持した。
ドルの為替レートも上がったが、もとよりこのドル相場は、アメリカ経済の体力の反映ではなく、日本の投資が生み出した仮象であって、プラザ合意で各国がドル高の是正に向け協調介入を始めると、ドルはたちまち「是正」の域を越えた水準にまで下落する。
ドル安下の資金流入には安定した内外金利差が欠かせない。
アメリカは資金の流入を維持すべく、今度は金利調整を政策協調の課題としてセットする。
日本の金融当局はこれに従い、二年三カ月にわたって超低金利を放置する一方、機関投資家を督促してドル債の購入を継続させる。
八〇年代、メディアによって描かれた日米経済関係の図柄は、貿易摩擦一色といってよかった。
それまでの自動車や鉄鋼に加えて、八〇年代の半ばには、コンピュータやハイテク部品、あるいは金融その他のサービス部門においても、日本の市場アクセス問題が大きくクローズ・アップされた。
アメリカ政府は協議を迫り、議会は包括貿易法を制定し、スーパー三〇一条を振りかざして対日批判を強める。
これに応えるように、日本は、前川レポートなどで内需拡大へのプログラムづくりに腐心する。
これがモノ経済の側面から見た八〇年代のR米経済の基本的な構図であった。
この構図は九〇年代、クリントン大統領の時代になっても変わらないばかりか、市場開放への圧力は、数値目標が掲げられるなど、いっそう結果志向を強めるのである。
しかし、そのいわば裏側の、マネー経済の側面から見た日米関係は、以上見てきたように、はなはだ異なる様相を示していた。
プラザ合意は日本が積み上げた対米資産を大きく減価させた。
金利調整は、日本に巨大なバブルを発生させ、その破砕によって、日本経済は未曾有の不況へと突き進むことになった。
もっとも単純な表現を用いるならば、日本の手にした輸出代金がそのままドルに代わってしまったことが問題であった。
シンボル経済下の為替相場という危険な領域、あるいは基軸通貨国の為替市場への影響力をじゅうぶん視野に入れず、日本が日米両国の巨大な経済を直接、ドルで連結してしまったことは取り返しのつかない失策であった。
資本輸出国・日本が為替リスクを負担しなければならないという奇妙な構造が、日米二国間に常識のように居すわっていた。
これが莫大な為替差損を生み、いたずらに日本経済の体力を疲弊させたのである。

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